242

富士山に登る。日付が変わったころの七号目は既に強風で、それは頂上付近にもっと強い風が吹いていることを容易に想像させる。気温は低く、トレッキングポールを持つ手は感覚が失われ、身体は芯から冷え切っていて震えが止まらない。酸素濃度の低下と気圧変化による頭痛はひどくなる一方で、一歩一歩歩くたび、心臓が一つの拍動を行うたびに締めつけるような痛みに全ての感覚を支配される。チーム内には私よりもずっと体調が悪そうなメンバーがいて、私は体調が悪いとは口が裂けてもいえなかった。疲労で震える足に力を込めて岩を登る。ヘッドライトの灯りが灯篭行列みたいで綺麗だった。

 

なんとか日の出の時刻までに頂上に着いたものの雲は厚く薄い朱が雲間から差し込むのみで、ご来光を見ることはかなわなかった。風は経験したことのないような強さで、前に進むことはおろか重たいリュックや人間の体をも押し返す。友人のキャップが風に舞い一瞬にして空に吸い込まれる、この世の終わりのような空間だった。山頂の写真が一枚も残っていないことが山頂の過酷さを最もよくあらわしているという皮肉。山頂で食べたカップラーメンはすごくおいしかった。

 

下山では滑りやすい砂礫をただひたすらに歩く。風景には変わり映えがなく、その途方もなさに簡単に絶望できる。斜め前方向の重力に逆らうための足の力が入らない。強風によって運ばれた石礫が頬を叩く。口の中の砂を噛む。終始どうしてこんなことをしているのかわからなかった。五号目に帰ってきたとき達成感はなくおぼろげな思考と全身の疲労だけが残る。富士山を登ったという微かな記憶と。

 

今回の登山は私以外に五名のメンバーがいて、それぞれに強い個性があって、誰とどのように接していれば六名の中庸が保たれるのかをずっと考えながら過ごしていた、そんなことをする必要はないのに。無意識のうちに人との距離を測ったり、距離を感じて悲しくなったりする。バス内やお店での座る位置を考えるのが面倒で、そういった場面においてはずっと一番後ろに位置した。誰が誰のことをどう思っているのかがぼんやりとわかる。わかるからつらくなる。

 

事前に入念な準備をし職場の人間と山小屋に一泊した今回の登山よりも、仲の良い友人と軽装とスニーカーで突発的に登った恵山の方が楽しかった、と無粋なことを思ったりもする。富士山は登って上から見るよりも遠くから眺めている方が綺麗なのだとわかる。

 

富士山は日本人よりも外国人の方が多かった。「弾丸登山」の英訳が"Bullet Climbing"になっていて興味深かった。用例を調べても富士山に関する記事しか出てこないので、限りなく限定的な地域でのみ使われる特殊な和製英語なのかと思ったら、そもそも「弾丸登山」が「夜間に富士山5号目に到着し一気に山頂を目指すこと」を指し示しているらしい。「弾丸旅行」「弾丸帰省」のような単語と同じ構造をしているのかと思っていたけど違うんだ。

 

山梨の夏は地元の夏を思い出させるような乾いた気持ちのいい夏の暑さでよかった。バスから新宿に降り立ったときのあの不快感と絶望感。高山病はすっかり治ったはずなのに頭痛だけが治らない。